名所物見の旅 其の七拾壱:越後の名峰・巻機山で春スキーを満喫

文・写真:河辺雄二、FLEACT横須賀広報課 巻機山の概要 深田久弥の「日本百名山」に選定されている巻機山(まきはたやま)は、越後と上州の分水嶺である三国山脈の谷川岳連峰から北に延びた尾根にある標高1967メートルの名山である。巻機山は川端康成のいわゆる長いトンネルを抜けて雪国(越後湯沢)へ出なければその姿を見ることは出来ず、魚野川沿いの南魚沼からは趣のある大きくて立派な山容が眺められる。巻機と云う名は機(はた)の神様である巻機と関係があるようだが、「日本百名山」にも詳しい山名の由来はわからないとしている。 巻機山は日本百名山だけあって人気が高く、特に最近は常に多くの登山者を集めているようだ。わたしが初めて巻機山に登ったのは三十年以上も前のことで、当時は今のような百名山ブームや中高年登山者ブームにも無縁で、ましてや山ガールなんてありえない時代であったので、巻機山のようなローカルな山は、割と静かな山旅ができたのである。 山ガールならぬ山オンナ 余談になるが、昔は山ガールはいなかったが山オンナと言う存在があって、山オンナとはニッカーボッカにカッターシャツといった当時の典型的な山屋スタイルに加えて首手拭い、そして男顔負けのドでかいキスリングザックを担ぎ、夜行列車の中では通路に新聞紙を敷いてゴロ寝もへっちゃら。1960~70年代に青春を送った若い男たちの一般的な女性の理想像は、か弱く可憐なといったイメージが求められ、山オンナはどうしても引かれてしまう存在だった。しかし最近の若い男子からすると、山オンナは頼りがいのある理想的女性なのではないだろうか。生まれる時代を間違えたと、残念がっている元山オンナの中高年女性は多いかもしれない。 四季折々の巻機山登山 巻機山登山のシーズンは5月下旬の山開きから新雪の来る10月末までが一般的で、冬山のベテラン登山者であっても、積雪量がまだ少ない12月上旬までと移動性高気圧が通過する3月以降が適期である。豪雪地帯である巻機山の厳冬期登山はまず不可能と考えたほうがよく、強力なパーティを組んで挑戦しても、滅多にない絶好の天候に恵まれなければアタックもままならず、実力、装備、運が揃わなければ登頂は難しい。またシーズンはじめの5~6月は大きく残った雪渓が登山道をふさぎ、沢コースは通過が厄介なこともある。登山情報をチェックして出かけるに越したことはない。 巻機山は春から晩秋にかけてそれぞれ味わいある登山が楽しめ、なかでも燃えるような紅葉の素晴らしさを喧伝する人が多いが、あえてわたしは早春のよさを真っ先に挙げたい。初めて登った巻機山の雪深い頂上から、薄黄緑色に新緑萌える山麓へとスキーで滑り降りた爽快さが、忘れがたい思い出になっているからである。 早春の巻機山登山へ出発 80年代初頭の4月、相棒のA君とわたしは巻機山に春スキーに出かけた。六日町の友人宅に寄った翌日、国道291号を南下して、最奥の清水という集落まで行くと道路は行き止まりになった。道路の周囲はまだかなりの雪が残っている。清水には何軒かの民宿があって、シーズン中は巻機山への登山者を迎えるというが、この時期には登山者もほとんどいないので、民宿が営業しているのかは不明であった。ここから巻機山へは高低差1,500メートルあり、清水に宿泊して翌日の早朝に出発すれば、余裕ある登山が楽しめるはずだ。 われわれは車を行き止まりの道路に駐車して樹林に入り、30分ほど歩いたところの樹林の切れ目の開けた雪原にテントを張った。まだ少し時間的に早いが、明日に備えて英気を養っておこう。とりあえず雪をコンロにかけて溶かして、炊飯用の水を作る。各自大きな水筒二個に水を満タンにして持ってきたが、これは明日の行動中の補給用で、夕食と明日の朝食の水を確保しなければならない。A君によれば近くに小さな小川があるはずだが、すべて雪の下だという。ということはここ山麓でさえ、まだ相当の積雪が残っているということになる。 翌朝も快晴で明けた。ここ数日はよい天気が続いている。6時にテントを出発する。雪が深いのでスキーにシールをつけて歩くが、すぐに急斜面となったのでザックにスキーを括り付け、キックステップで登っていった。積雪のためどこが登山道かわからないので、見当をつけて雪の大斜面をどんどん直登する。急斜面のきつい登りを45分。後を振り返ると大源太山の尖った特徴ある峰が目と鼻の先に見える。まるで槍ヶ岳を思わせる山容だ。なおも急登が続いた後、広い雪原に出た。周囲は白銀の山並が延々と続いており、思わず歓声を上げる。巻機山がこれほど展望に恵まれたいい山だとは知らなかった。来てよかったとつくづく思う。 雪原から再び急斜面になり、凍った雪の状態が悪いので、スキー登山兼用靴にアイゼンを着け、ザックにつけてあったピッケルを取り出した。ちょっとビビリながらの登行だったが、わたしは登りよりも下りの滑降のほうがむしろ心配になった。このアイスバーン化した急斜面をうまく滑り降りられるか、あまり自信がない。まあ、最悪でも、斜滑降とキックターンを繰り返せば何とかなると思い直し、アイゼンを雪の斜面に蹴りこみながら一歩一歩登っていった。 やがて急斜面を登りきると、ニセ巻機山に出た。道標はニセ巻機山となっているが地図には前巻機山と表記され、また深田久弥の本には前山と記されている。ここからはなだらかな気持ちのよい雪の稜線を進む。こうした稜線歩きは本当に登山の楽しさを実感する。このあたりは無雪期には池塘が美しいところである。ニセ巻機山から40分ほどで巻機山の山頂に到着した。頂上一帯はまだ深い雪に覆われている。 山頂の大展望と爽快な滑降  山頂からの展望は素晴らしいの一語に尽き、まず北西手前に魚沼の田園地帯と真ん中を流れる魚野川、北奥は新潟方面であろうか。そこから東へと八海山、越後駒ケ岳、中ノ岳と続く越後三山。その後方には奥只見の奥深い山並。そして会津駒ケ岳から平ヶ岳、燧岳、至仏岳などの尾瀬の山々と日光白根山、武尊山。南には谷川岳をはじめとする三国山脈。なかでも大源太山と万太郎山の尖峰が目立っている。志賀方面の山々の右には苗場山。その奥には北アルプスらしき白い峰々が霞んで見えている。北アルプスの手前に見える大きな山々は黒姫山、妙高山、火打山であろう。標高を下げた越後平野の中にどっしりと聳えるのは、越後の黒姫山のようだ。東頸城へ行くと、田園地帯の平野の中に、突然のように大きく盛り上がる山容が特徴の山である。ここ巻機山から眺めれば、越後は周囲の豪雪の山々から清流を集めて広大な水田が広がり、米どころ、酒どころという表現がぴったりする豊かな土地であることが理解できる。 サンドイッチとワインの昼食を楽しんだ後は、いよいよ本日のメインイベントである山頂からの滑降に挑戦するときだ。山頂からニセ巻機山までの稜線は緩斜面で滑りが悪くて苦労する。そしていよいよ急斜面に滑り出してみると、心配したアイスバーンは陽が昇ったせいで暖められてザラメ状となっており、先ほどまでの不安は杞憂に終わった。こうなればしめたもので、わたしの技術でも問題はない。ザックの荷も軽いので、ターンで振られることもなく急斜面の滑降は快適そのものであった。春スキーの楽しさを満喫しながら滑り降りる。 途中A君とはぐれてしまい、しばらく待っても来ない。しかし北アルプスの山小屋で働きヒマラヤ遠征の経験もあるベテラン山男のA君のことだし、天気は最高で視界もよいので心配あるまいと、一人テントまで滑り降りた。テントでコーヒーを沸かしてのんびりしていると、小一時間も経った頃、やっとA君が滑り降りてきた。どうしたのかと聞けば、あまりに気持ちがいいので、スキーをベットに昼寝をしていたとのこと。鷹揚な性格でクマのような髯面の風貌のA君は、都会では違和感溢れるが、こうして奥深い山に入ると自然の中に完全に同化しているから可笑しい。 忘れがたい巻機山山麓の一夜 その夜は楽しい春山スキー登山を祝して大宴会となった。ふつうのテント登山では考えられないような食材を担ぎ上げたお蔭で、豪華すき焼きパーティに、六日町の友人の細君が勤める銘酒八海山の差し入れで乾杯。仕上げは25年物のシングルモルトスコッチ。当時は海外旅行の折にしか手に入れることが出来ない逸品であった。 周囲が闇に包まれた頃、寝袋に入ったままテントから顔を出して夜空を眺めた。樹間に満天の星が瞬き、時折流れ星が横切っていく。寒さも気にならず、夜が更けるのも忘れてずっと見入っていた。素晴らしい思い出として、一生の宝物になるような山旅だった。

世界の写真家⑰ 国際会議場に潜むザロモン博士

文:河辺雄二、FLEACT横須賀広報課 Dr. Erich Salomon (1886-1944) エーリッヒ・ザロモンはユダヤ系銀行業者の跡継ぎとしてベルリンに生まれた。学生時代は動物学と工学を専攻し、のちに法学も学んで博士号を取得した。順風満帆な人生が約束されているかのような前半生であったが、第一次世界大戦勃発が人生の歯車を狂わすことになる。ドイツ軍の兵士として従軍したザロモンは、マルヌ会戦で捕虜となってしまう。 ドイツ敗戦によって終戦を迎えたザロモンは戦後不況の中、株式仲買人、ピアノ販売業、タクシー会社などを転々とし、1927年、41歳のときにウルシュタイン社の広告マンとして働き始めた。このとき偶然出合った「エルマノックス」というカメラによって、また彼の人生は大きく変わることになる。エルマノックスはエルノスター85mmF1.8 という当時では驚異的な大口径レンズを装着し、煩雑なマグネシウム閃光を使用せずとも、部屋の中でスナップ写真が撮れるという最新のカメラで、機械マニアの彼を虜にするには十分であった。 広告部から同社の看板グラフ誌「ベルリン画報」写真部に移ったザロモンは、親交があったワイマール共和国の外務大臣シュトレーゼマンをはじめとする政治家や財界人の人脈を頼りに国際会議や官邸などに入り込み、山高帽などにカメラを隠して政治家や著名人を盗み撮りして世間をあっといわせた。大型カメラにマグネシウムを焚いて撮影するというスタイルが一般的であった当時の常識では、写真を撮られたことにも気がつかない人たちが多く、まったく無防備な表情を撮られた著名人自身驚くばかりであった。 入社翌年の1928年にはウルシュタイン社を退社してフリージャーナリストとなり、「ベルリン画報」のほかにも数誌に写真を提供して活躍した。1931年には代表作「気付かれない瞬間の有名人たち」を出版し、ザロモンの名は内外に知れ渡っていく。しかし1933年にナチスが政権を握ると、ユダヤ系のザロモンはドイツの雑誌から締め出された為、フランスなど他国の雑誌へ写真提供して仕事を続けた。 ザロモンの仕事は常に困難を伴い、撮影を見つかれば締め出されたり、ときによっては身の危険を感じたり脅迫にさらされることもあった。そのとき彼は常に「以前にもけっして妥協しなかったのだぞ!」と自分を励ますのであった。ザロモンは自分を目立たせない術を会得しており、基本的には完璧にその場に合った服装をすることで、燕尾服の正装からラフな普段着まで取り揃えて準備していた。 ザロモンは国際会議には欠かせない存在になり、フランスの外相ブリアンは会議の前に「ザロモン博士はどこにいるかね?もしも彼が現われないと、世間はわれわれのこの会議は重要なものではなかったと言いふらすに違いない!」とジョークを飛ばし、またあるときには「会議には三つのものが必要だ。数人の外務大臣とテーブル、そしてザロモンである」とザロモンを賞賛した。 ナチスドイツによるユダヤ人迫害が厳しくなった1938年にオランダに移住したザロモンは、その後も国際舞台で活躍を続けるが、1941年のナチスドイツのオランダ侵攻により活動も制限されるようになり、翌年には隠れ家での生活を余儀なくされるようになる。1943年ガスメーター検針員に発見されて当局に通報されたザロモンは、隠遁生活に終止符を打たれてアウシュヴィッツに送られ、1944年7月7日強制収容所のガス室に消えてしまう。 ザロモンの人生は常に時代に翻弄されたものであったが、彼の残した写真はまさに時代の証人であり、フォトジャーナリズムの先駆者として現在でも尊敬を集めている。

2014 FIFAワールドカップ開幕

文:河辺雄二、FLEACT横須賀広報課 いよいよ4 年に一度の世界最大のスポーツの祭典、FIFAワールドカップが開催される。気になるわが日本チームの戦いや、強豪チームひしめく中で優勝チームの予想など楽しみは多い。地球の反対側となる今回のブラジル大会、試合のライブ放映は夜半から午前中となり、毎回のことながら寝不足の一ヶ月になるのは必至であろう。 各チームの戦力分析などは専門家に任せるとして、このコラムではワールドカップの歴史やこぼれ話を拾ってみたい。 優勝チームに大番狂わせはない 1930年に始まったワールドカップはいずれの大会も南米もしくはヨーロッパの国が優勝しており、またほとんどの場合開催された大陸の国が優勝している。例外として1958年スウェーデン大会と2002年日韓大会のブラジル優勝、2010年南アフリカ大会のスペイン優勝の三例がある。2002年と2010年の大会ではアジアやアフリカの国にはまだ優勝する力がなかったと考えれば、1958年のブラジルの優勝だけがアウェーの他大陸での唯一の優勝として特筆されるものである。 ワールドカップは決勝まで計7試合戦うことになるので、優勝するのは実力のある国に限られる。四チームによるグループリーグで例え一試合負けても、勝ち点および得失点差で二位以内ならば決勝トーナメントに進めるが、そこから四試合はPK戦を含め一試合も負けることは許されないので、幸運だけで優勝することが不可能なのは明らかである。 ワールドカップを制するのは優勝候補に挙げられた国の中から出てくるが、絶対的な大本命と騒がれたチームは案外優勝できていない。今までのワールドカップを振り返ってみると、1962年と1970年は大本命のブラジルが最初から最後まで圧倒的に強かったが、1954年の優勝候補筆頭のプスカシュ擁するハンガリー。1974年のクライフ率いるオランダ旋風。黄金のカルテットと称された中盤を持つ1982年のブラジル。フリット、ファンバステンらスター揃いの1990年のオランダなど大本命が途中で姿を消した。しかしノーマークの国が優勝することもありえず、例えば同じく4年に一度の欧州選手権で2004年にギリシャが優勝したような大番狂わせは、ワールドカップではいまだかつてない。 ジンクスめいた話として、「一年前に行われるリハーサルを兼ねたプレ大会(現在ではコンフェデレーション杯)の優勝チームは、本番では優勝できない」とか「年間最優秀選手賞(バロンドール)を獲った選手のいるチームは優勝できない」などがあり、このとおりならブラジルとポルトガルの優勝はないということになる。メッシが2013年度のバロンドールを獲れなかったことで、アルゼンチン国民はほっとしたかもしれない。 実力と経験を併せ持つ伝統あるチームはワールドカップでの戦い方を熟知しており、けっして最初から飛ばさないことが重要で、1982年のイタリアの戦いぶりはその典型的な例であった。その反対に1986年のワールドカップでアルゼンチンの名将メノッティが今大会最高のチームだと絶賛したデンマークが、最初から全力で飛ばしすぎてベスト16で終わった例がある。メノッティは、もし出場国が総当りのリーグ戦をすれば、圧倒的にデンマークが強いだろうと語っていたのが印象的であった。 最強ブラジルの意外な弱点 ワールドカップ唯一すべての大会に出場し、史上最多5度の優勝に輝くブラジルは、自他共に認めるW杯最強チームといえるが、南米の中にあっては圧倒的に強いわけではなく、南米選手権(現在のコパ・アメリカ)において15回優勝のウルグアイや14回優勝のアルゼンチンに水をあけられ、いまだ優勝8回にとどまっている。 またブラジルには4度も戦いながら、一度も勝てないチームがある。その相手とはノルウェーで、2分2敗という意外な通算成績である。1998年のW杯での対戦を見たが、ブラジルの攻撃を体を張って跳ね返し、攻撃は大型フォワードを狙って単純にロビングを放り込む繰り返しであったが、これが時間とともにブラジルを消耗させ、結果2-1の勝利となった。その前年の親善試合でもノルウェーは4-2で勝利しているので、この戦法はブラジルに有効だといえる。 世界最強を誇った「マジック・マジャール」 ワールドカップの歴史の中でも優勝にまつわる悲劇のひとつに、当時世界最強を誇ったハンガリーと西ドイツの決勝戦がある。無敵の「マジック・マジャール」と異名をとったハンガリーを決勝で破った西ドイツの戦いは“ベルンの奇跡”と呼ばれ、今でも語り継がれている。 ハンガリー代表は1938年のフランス大会で準優勝するなど、欧州では知られた強豪であった。ハンガリー代表は1950年6月から無敗記録を続け、1952年のヘルシンキ・オリンピックでは金メダルを獲得。1953年のイギリス遠征では、自国内の国際試合では一度も負けていなかったイングランド代表を6-3で破り、世界中を驚かせた。イングランドにとって英国四協会を除く国際試合において、ホームのウエンブリー競技場での初黒星を喫したのであった。翌年ワールドカップ直前の5月、ブダペストでの再戦では7-1の大差で再びイングランドを一蹴した。 1954年ワールドカップ・スイス大会は当然のごとく、ハンガリーは優勝候補筆頭に挙げられていた。しかし、したたかな西ドイツは一次リーグのハンガリー戦で主力を温存してハンガリーに負け、楽な組み合わせの準々決勝に進んだ。しかもハンガリーのエース、プスカシュに負傷を負わせたことも非難の的となった。いっぽう一位通過したハンガリーは強豪との連戦となり、ブラジルとの準々決勝ではピッチ上の殴り合いがロッカールームにまで持ち越され、ビンやスパイクを手に血みどろの殴り合いが続いて警察が出動する騒ぎとなった。ウルグアイとの準決勝も、延長まで持ち込まれたいへんな消耗を強いられた試合となった。 毎試合スイスの冷たい雨にたたられ、死闘を演じながら決勝に勝ちあがってきたハンガリーが迎えた決勝戦も土砂降りの雨であった。技巧派の、しかも疲労を残すハンガリーにとっては不利であり、西ドイツに3-2というスコアでよもやの逆転負けしてしまう。ハンガリーの選手たちは1950年から4年間負け知らずで臨んだ決勝戦で、人生で一番大事なといえる試合を落とし、栄光に名を刻むことはできなかったのである。 ハンガリー代表はワールドカップ後も再び一年以上無敗を続けるなどの戦績を残すが、1956年10月のハンガリー動乱勃発によって、海外遠征中だったプスカシュ、コチシュら主力選手たちは国外に亡命してチームは崩壊し、「マジック・マジャール」の栄光はここに終焉した。1950年からハンガリー動乱までの代表チームの成績は、トータル49勝9分3敗という驚異的なものであった。 なおハンガリーのエース、プスカシュは亡命後の1958年からレアル・マドリッドに所属し、サッカー史上最高の選手と評されるアルフレッド・ディ・ステファーノとともにレアルの黄金期を築いている。 ジュールリメ杯はいま何処? 国際サッカー連盟(FIFA)の会長を務め、ワールドカップを企画したフランス人ジュール・リメが寄贈した黄金の女神の像をワールドカップ優勝のトロフィーとし、このトロフィーは彼の功績を称えてジュール・リメ杯と呼ばれた。ジュール・リメはワールドカップを三度制した国に永久保持させると宣言し、1970年に三度目の優勝を果たしたブラジルがその栄誉に輝いた。主将カルロス・アウベルトに掲げられたジュール・リメ杯は、永久にブラジルサッカー協会が保持することになったのである。ところがこのジュール・リメ杯は1983年に盗難に遭い、像は一説には溶かされて金塊にされてしまったとか、イタリアの大富豪が秘蔵しているなどといった噂が絶えないが、いまだ真相は闇の中である。 現在のワールドカップトロフィーは2006年から使用されている三代目で、これを高く掲げるのはいったい誰になるのであろうか。7月14日の決勝がいまから楽しみである。