横須賀ヴェルニー小栗式典が日本の近代化に貢献した2人に敬意を表する

文:礒部良、FLEACT横須賀広報課

 

西方から海を越え、日本からここにやってきた

礼儀正しく、色黒の、二本刀の使節団

屋根つき馬車にのけぞって、頭に毛はなく、無表情

本日マンハッタンを行列中

―「ブロードウェイの行列」ウォルト・ホイットマン(1860)

2016年11月12日、第65回ヴェルニー・小栗祭式典において、クリストフ・ピポロ在日フランス大使付国防武官がフランソワ・レオンス・ヴェルニ―と小栗上野介忠順の像に花輪をささげる。2人は日本の工業化、近代化そして艦船修理廠および日本地区造修統括本部(SRF-JRMC)の始祖に対して貢献を成した。SRF-JRMCは、最先端の技術力を駆使し、艦船の修理及び近代化を太平洋米海軍部隊、米太平洋艦隊に提供し、第七艦隊の艦船を常に機能できる状態に保つ。  (写真:礒部良 FLEACT横須賀広報課)

2016年11月12日、第65回ヴェルニー・小栗祭式典において、クリストフ・ピポロ在日フランス大使付国防武官がフランソワ・レオンス・ヴェルニ―と小栗上野介忠順の像に花輪をささげる。2人は日本の工業化、近代化そして艦船修理廠および日本地区造修統括本部(SRF-JRMC)の始祖に対して貢献を成した。SRF-JRMCは、最先端の技術力を駆使し、艦船の修理及び近代化を太平洋米海軍部隊、米太平洋艦隊に提供し、第七艦隊の艦船を常に機能できる状態に保つ。 (写真:礒部良 FLEACT横須賀広報課)

2016年11月12日、横須賀市は第65回ヴェルニ―・小栗祭式典を主催し、横須賀製鉄所の2人の設立者の名誉を称えた。その2人とはフランスの海軍技師フランソワ・レオンス・ヴェルニ―と日本の幕府の役人であった小栗上野介忠順である。横須賀製鉄所は、日本で最初の近代的工場群であり、150年以上前、江戸・明治という時代の移行期に誕生した。また、この工場は横須賀米海軍艦船修理廠および日本地区造修統括本部(SRF-JRMC)の最初期の祖でもある。

「小栗公とヴェルニ―は当時の日本に技術革新をもたらしただけでなく、海軍の街として横須賀が発展する礎を築き、名だたる海軍の台頭を可能にいたしました」とクリストフ・ピポロ在日フランス大使付国防武官は祝辞で述べた。「海軍発展を支えた横須賀海軍工廠の施設は現在においても使用されています。」

横須賀市と姉妹都市であるブレスト市のレザ・サラミ副市長も来賓として出席。日本政府、県や市の官庁代表者、海上自衛隊の士官や横須賀の防衛大学校で訓練中のフランス海軍士官候補生などが含まれた。

米海軍からは、第七艦隊司令官ジョセフ・P・アーコイン中将、在日米海軍副指令官兼参謀長スティーブン・ウィーマン大佐、第七艦隊潜水艦部隊司令官リチャード・A・コレル少将、米海軍横須賀基地司令官ジェフリー・キム大佐などが列席した。

151年前の秋の日、1865年11月15日には製鉄所の鍬入れ式が行われ、建設が開始。ヴェルニ―の技術支援により、日本最初で最古、現在も現役のドライドックが1871年に完成している。

横須賀から日本の近代化が始まったことは強調してもしすぎることはない。ドライドックだけでなく、横須賀製鉄所の技術は日本の近代化に大きく貢献した。

たとえば、1872年設立の富岡製糸場の建物の設計は横須賀製鉄所で働く設計士エドモン・オーギュスト・バスチャンの手によるものだ。製糸場はユネスコにより2014年に世界遺産登録されている。製糸場に用いられた、木骨造やトラス構造と呼ばれる技術は横須賀製鉄所の複数の建物にも使用されていた。

日本の近代化は横須賀製鉄所で製作された機械によっても支えられた。例を挙げれば、官営愛知紡績所の紡績機も横須賀製である。さらに言えば、観音崎灯台はヴェルニ―が設計を行い、製鉄所の建設部門長だったルイ・フェリックス・フロランにより1872年に建造されている。

日本語で用いられている「製鉄所」という表現は今日的には「鉄を精製する場所」という意味だ。実際、横須賀製鉄所は、さまざまな工場が集まった総合工場であり、銑鉄を加工してパイプや缶、ボイラーやシャフト、砲台や大砲などの鉄製品を製作していた。

実際、製鉄所は、度量衡にメートル法を用い、異なる工場が銑鉄を、パイプや缶、船のエンジンやボイラー、シャフトや砲台、大砲の部品など、さまざまな製品に加工していた。約1,000名もの従業員を抱えたこの工場群は当時の他の工場とは一線を画していた。家内制手工業のこの時代では、日本のほとんどの工場は10名足らずだったのである。

1860年、ジェームズ・ブキャナン第15代アメリカ大統領がホワイトハウスにおいて、日米修好通商条約批准書交換のために渡米した日本の使節たちを歓迎会で迎える。(図版:『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』紙 1886年: パブリックドメイン)

1860年、ジェームズ・ブキャナン第15代アメリカ大統領がホワイトハウスにおいて、日米修好通商条約批准書交換のために渡米した日本の使節たちを歓迎会で迎える。(図版:『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』紙 1886年: パブリックドメイン)

ここで、工場設立の助言を仰いだのが、アメリカや他のヨーロッパの国々ではなく、なぜフランスだったのか、という疑問が生じるかもしれない。歴史を見れば、アメリカは南北戦争の真っ最中であり、その勢力を国外に伸ばす余裕がなく、イギリスはと言えば、1840年から1842年まで続いたアヘン戦争などに見られるような帝国主義的なやりかたを、小栗は警戒していた。ロシアもまた、ロシア軍艦対馬占領事件のような、九州と朝鮮の間にある島を占拠しようとした試みが危険視されていた。オランダは日本とは出島のような特別区を通じて長い貿易関係にあったが、もはや国際的な勢力としては政治的・技術的に精彩を欠いていた。

小栗が近代日本の先駆けであったという事実は、日本人の間でさえ一般に広く知られてはいない。人気度で言えば、日本の歴史の授業などでは、1858年に日米修好条約批准書交換のため、小栗がポウハタン号でアメリカに渡った際(万延元年遣米使節)、咸臨丸という船で同行した勝海舟、ジョン万次郎などが時代の重要人物として取り上げられている。しかしながら、小栗の忠誠心は非常に高く、新政府軍の手により群馬県でその命を奪われたという事実にこそ、その理由がある。

「このような式典はあまり知られていませんが、横須賀市が正式に毎年、主催し運営もしていることは大きな意味を持ちます」と話したのは、小栗の菩提寺、群馬の東善寺の村上泰賢住職である。数々の小栗に関する著作でも知られている。「横須賀はまさに日本の近代化が始まったベースなのです。」

Advertisements

Leave reply:

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s