世界の写真家⑲ 写真界のピューリタン  エドワード・ウェストン

文:河辺雄二、FLEACT横須賀広報課

Edward Weston (1886-1958)

大型カメラにレンズをセットするエドワード・ウェストン。
大型カメラにレンズをセットするエドワード・ウェストン。

エドワード・ウェストンはイリノイ州ハイランド・パークに生まれ、カメラとの出合いは、16歳のとき父からプレゼントされたコダック・ブルズアイ#2というボックスカメラだった。カメラに夢中になったウェストンはシカゴの公園を撮り歩き、高校を卒業して広告関係で働きながらも写真を続けた。

1906年、休暇を利用して姉マリーの住むカリフォルニアに旅行してその自然に感動し、ロス~ネヴァダ間の鉄道測量師の仕事を得て移住する。同時にロスで各家庭を廻り、家族や赤ん坊、ペット、葬儀の写真など、ポートレートを中心とした街頭写真家の仕事を始めた。1908年にイリノイに戻り、写真学校に入学して本格的に写真を学びなおした。その間、最初の妻フローラ・メイ・チャンドラーと結婚する。

1911年、写真学校を卒業したウェストンは最初のスタジオをカリフォルニア州トロピコ(現グレンデール市)に開設する。その頃主流であったソフトタッチの絵画的な写真や商業写真の分野で成功し、多くの賞を受賞する。ウェストンは自身の肖像写真方法論を、当時の雑誌などに執筆している。

ウェストンとフローラは四人の息子、チャンドラー(1910年生まれ)、ブレッド(1911年生まれ)、ニール(1914年生まれ)、コール(1919年生まれ)を授かり、ブレッドとコールは父と同じ写真の道に進むが、ウェストンの徹底した訓練と妥協を許さない制作態度を身近で見て育ったお蔭か、二人とも写真家として成功している。

ペッパーと題されたこの作品は、モチーフをフォルムと精密な質感描写で表現した作品。
ペッパーと題されたこの作品は、モチーフをフォルムと精密な質感描写で表現した作品。

1919年、ウェストンはロサンジェルスの日本人街リトル・トーキョーにあった日本人芸術家集団の拠点「赤土社Shakudo-sha」で初めての個展を開いた。この個展開催の経緯は、明治学院中等部の英語教師で円覚寺で修行をしながら歌舞伎や浮世絵の研究をして帰国したラミエル・マッギーと「赤土社」の香川県出身の日本人写真家宮武東洋の繋がりから、新進作家のウェストンに白羽の矢を立て企画されたようだ。

1923年、メキシコでの個展のため、ウェストンの作品のモデルであり、公私共にパートナーであったティナ・モドッティと長男チャンドラーを伴ってメキシコを訪れ、長期滞在する。メキシコではオロスコ、シケイロス、リヴェラなどメキシコ・ルネッサンスの芸術家たちと交流を重ね、以後、ティナや息子を連れて何度も当地に滞在した。

日本人街での個展はその後も1925年と1927年に開催されている。ウェストンの日記には当時の様子が克明に書き残されており、その一部をみてみると、

1925年8月 「この3日間で総額140ドルものプリントが売れた。アメリカ人の婦人クラブは2週間で売り上げがゼロだった。日本人が3日間に140ドルも買ったのだ。洗濯屋の職人が52ドルものプリントを買ってくれた。この男は借金までして私の写真を買った。これはメキシコ以外で開かれたもっとも愉快な展覧会だ。知的な人々の前で展覧会をすることは何という救いだろう。」(注:1925年時点でのアメリカにおける140ドルの価値がよくわからないが、かなりの金額であったのであろう。)

デスバレーの砂丘を光と影で表現したウェストンの代表作。
デスバレーの砂丘を光と影で表現したウェストンの代表作。

1927年4月 「日本人の写真家アサクラ・キンサクが尋ねてきてプリントを2点買ってくれた。アメリカ人には1点も売れない。日本人とは何と鑑賞眼が高く、理解力があり、そして謙虚で礼儀正しい人たちなのであろう。」

「トーヨーさんの手紙には“私たちのクラブ赤土社はギャラリーの賃貸料をすべて自分たちが支払います。写真が売れた場合のコミッションもいただきません”と書いてある。」とウェストンは日本人の親切に驚いている。

そしてイトウという人物が4人の友人を連れて訪れ作品を買い、「日本に来ませんか? もしそうなれば、大勢の日本人は名誉に思うでしょう。」と誘った。ウェストンはそうした費用は捻出できないと考えていたが、イトウから「私たちの国に来て欲しい。船賃を送ったら、あなた来ますか?」と問われ、これほどの名誉はないと感激する。しかし当時のウェストンは込み入った私生活の事情もあって、残念ながら来日は実現しなかった。

個展を通じウェストンの作品は、まず日本人とメキシコ人に認められたのであった。ウェストンは多くの芸術家たちとの交流で刺激を受け、19世紀末から世界の潮流となっていた絵画的なピクトリアリズム写真と決別し、モティーフをリアルに表現するストレートフォトに傾倒していく。無駄な情緒を排して質感描写に重点を置いて本質に迫る、ウェストン独自の作風を作り出していく。8×10インチ(六つ切)や10×12インチ(四つ切)の乾板やフィルムを使う大型カメラの特性を最大限に生かした精密描写によるオウム貝や野菜、樹木、砂丘、女性の肉体美など実験的な作品を作り出していった。一分の隙もない画面構成による被写体のフォルムからは、物体の持つ本質的な実在感が鑑賞者に伝わってくる。ウェストンの写真に対する姿勢はまるで求道者のようで、写真界のピューリタンという呼称がまさに相応しい。

1929年、カーメルにスタジオを開く。ここが終生の拠点となり、ポイントロボス岬のシリーズを撮り始める。1930年、メキシコの芸術家オロスコの企画で、ニューヨークで個展を開催し好評を博した。

1932年にはアンセル・アダムス、ウィラード・ファン・ダイク、イモージン・カニンガムらとf64グループを結成して展覧会を開いた。f64とは彼らが使う大型カメラのレンズの最小絞りであり、被写界深度を最も深くして、画面上のすべてのものにピントを合わせるという趣旨であった。

f64グループの中心として作品制作を続けるが、1945年ウェストンはパーキンソン病を発症する。1948年、ポイント・ロボスでの撮影が最後となり、以後闘病生活に入る。しかし息子たちの手によって、パリなど国内外での個展開催や作品集制作が行われ、世界中の人たちに影響を与えた。

美しい砂丘の風紋を捉えた作品。背景はシエラネヴァダ山脈。ウェストンはカリフォルニアやアリゾナの砂漠地帯をテーマにした風景写真を数多く撮影している。
美しい砂丘の風紋を捉えた作品。背景はシエラネヴァダ山脈。ウェストンはカリフォルニアやアリゾナの砂漠地帯をテーマにした風景写真を数多く撮影している。

1958年、写真界の巨匠ウェストンは71歳で永眠した。ウェストンの死後もその影響力が衰えることはなく、写真を愛好する世界中の人々から、いまだ多くの尊敬を集めているのである。

最後に宮武東洋が写真家細江英公に語ったウェストンとの思い出話を紹介して締めくくりたい。

「私が、あなたは構図、構図ってよく言うけれど、一体、構図って何だい、と訊くとウェストンは“構図はハラにあり、いったん覚えたら忘れろ!”というじゃありませんか。ふつうのアメリカ人なら頭を指すところだけど、この男はずいぶん東洋的な考えを身につけているなと感心しましたよ。」

ウェストンはマッギーとの交流から禅や浮世絵を知り、日本的な心や美意識が体内に芽生えていたのかもしれない。

(参考資料:エドワード・ウェストン展/解説・細江英公)

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